そもそもなぜ金利という概念が生まれたのか

6年 ago 金利のはなし そもそもなぜ金利という概念が生まれたのか はコメントを受け付けていません

ゼロ金利やマイナス金利など、金利をめぐる話がメディアの話題にならない日はありませんが、この金利という概念はどのように生まれ、発展してきたのでしょうか。
金利の仕組みとその発展について見てみましょう。

金利とは何か?

そもそも金利とはどのようなどのような仕組みなのでしょうか。
金利とは、お金を借りる(貸す)ときに発生する費用の総称であり、お金の貸し借りにおいて発生する借り手から貸し手に支払われるお金(利息)が貸し借りされた金額(元金)に占める割合のことを言います。

利息は元金×金利で求められ、仮に1,000万円を年5%の金利で借りるとすると、
1,000万円×5% = 50万円
が発生する利息となります。

いわゆる「利子率」「利率」「利回り」「割引率」なども金利のことを表しています。
金利もほかの商品サービスと同様に、金融市場における資金の借り手と貸し手の関係(需要と供給)によって決まります。

実物経済の時代から存在した日本の金利の仕組み

日本における利息の歴史をさかのぼると、強制的な税金などを割り当てて負担させる(賦課:ふか)による雑税の一種である「出挙(すいこ)」がその原型と言えます。
出挙は当時の地方自治体である国や郡を収める国司や郡司が公民に対して「強制的に稲を貸し付ける制度」であり、春に稲などを貸し付け、秋に元本と上乗せ分(利稲:りとう)を合わせて返済させるものでした。
出拳制度の本来の目的は、当時の基幹産業であった農業振興を進める勧農(かんのう)や救募といった農民の生活を維持していくためのものでしたが、律令制のもとでその性格は徐々に変容、国家に対する一種の税のようなものになり、利稲は国家の重要な財源となっていきます。

出挙には国司が官稲を用いる公出挙(くすいこ)と個人の私出挙(しすいこ)がありましたが、公出挙で五割、私出挙では一〇割という現在では考えられない高利が設定されていました。
このような高利に耐えかねて、抵当となる口分田を売り払って夜逃げをする農民は跡を絶たなかったとも言われ、戦国時代から江戸時代にかけて、農民をいかに自分の領地にとどめおくかは財政上重要なポイントでした。

キリスト教に左右された西洋の金利の仕組み

奈良・平安時代という実物経済の時代から連綿と続く金利の歴史を有している日本や東洋に対して、ヨーロッパ圏を中心とする西洋では最大宗教であるキリスト教により、金融業の発展が妨げられていました。
旧約聖書により金利の仕組みを禁じられていた西洋では、金融業は卑しい職業(賤業)であるとされ、様々な面で差別されていたユダヤ人が独占的に金融業を担うことになります。
15世紀のルネッサンスをきっかけにヨーロッパの中心となったイタリアや、大航海時代のスペインでは商業と金融の一体化が進み、大いに栄えることとなりました。

その後、イギリスが富と権勢をたくわえ、度重なる出兵により世界各地に植民地を築き、19世紀には「日の沈まない帝国」を築きあげます。
イギリスが世界の中心となるのに大きな役割を果たしたのが、ヨーロッパの金融業務を一手に握ったユダヤ人たちを受け入れたことが大きな要因であると言われ、金融に対して保守的なヨーロッパ大陸の国家に比べても進歩的であったことから、金利についても比較的寛容でした。
その後も現代の資本主義の根幹とも言える金融業で存在感を示すために、イギリスは金融制度の自主規制に任せながら要所で政府主導による金融改革を実施するなど、金融業に重きを置いたことでイギリスは生き残りをはかっています。

おわりに

現代金融制度の根幹とも言える金利の仕組みは、貸し手に有利で借り手に不利な仕組みですが、その発展とともに現代社会は大きくなってきたと言えます。
仕組みを知ることは、より賢い利用のために欠かせないと言えるでしょう。